
私の「半生」と「信念」
突然だが、10代の頃、私は漫才師だった。その活動休⽌中に、⼿持ち無沙汰で友⼈たちと映像制作を始めたのが、仕事の起源になる。21歳になった、“中卒”だった私は、⼤検(現:⾼等学校卒業程度認定試験)に向けた学習をしつつ、アルバイトで拾ってもらった広告代理店で映像撮影と編集のアシスタント業務に勤み、週末は主宰する映像制作チームで専ら創作活動に明け暮れた。
⼤検に合格した私は、美術予備校に通う。周囲の助⾔もあって、進学先は専⾨学校ではなく美術⼤学を希望していたからだ。当時の私は、17歳に紛れ込んだ唯⼀の22歳。⾼校⽣たちと同じことをして、優劣をつけられるのが堪えたのを覚えている。だが、地⽅都市で長らく“井の中の蛙”だった私には、それは紛うことなく必要だった。
本格的に“遠回り”の⼈⽣を歩み始めた私は、多摩美術⼤学造形表現学部映像演劇学科に⼊学。そこは社会⼈⼊試もある夜間部だったのだが、同級⽣には、ジャニーズ事務所(現:SMILE-UP.)に所属するタレントや、元宝塚歌劇団所属の俳優、エンターテインメントや広告業界の⼀線で活躍する親を持つ⽣徒など、実に多種多彩な面々がいた。
“平⺠出⾝”の私は、昼間を⼤⼿芸能プロダクションの映像制作部門でアシスタントディレクターとして過ごし、夜間は⼤学で映像を学ぶ。家路に着くのは概ね23時で、許されるのは、⼊浴と⾷事と翌⽇の準備程度だ。⼟曜⽇は終⽇授業があり、⽇曜⽇は⾃主映像チームの創作活動がある。
まさに“映像⼀⾊”。
時にそれを⾟く思うこともあったが、相⽅の気持ちを遮って漫才を終わらせたことの負い⽬から、同じ過ちの繰り返しをするまいと、踏み⽌まることできたのかもしれない。多摩美術⼤学や⾃主映像チームでは多くの作品を⼿掛けた。アマチュアとして多少の評価を受けたことも事実だが、意欲の源泉が“好きなものをつくる”であったことが記憶に残る。
当然のように、⼤学卒業後は早々に作家に成りたかったが、“⾃⽴”という社会的義務を無視できないとなると、それは到底叶わない。せめて作家性ある仕事に就きたいと、CM演出職を志すも、これも不出来だった。現実が厳しいのか、⾃⾝が⽢いのか、その問いの繰り返しが憂鬱を⽣んだ。当時は⼤学⽣に“期限”があることを恨んだが、根拠のない⾃信に溺れ続ける私を陸へと引き上げてくれた仕組みに、今はとても感謝している。
地に⾜をつけることを選んだ私は、東証マザーズ上場のPR・メディア系企業にアシスタントディレクターとして⼊社する。インタビュー番組を始めとするドキュメンタリー映像を専⾨に制作するディレクターの求⼈に応募したわけだが、それには確かな訳があった。
これまで何をやるにも“好き”を判断基準にしてきた。だが、初めて“得意”という要素を持ち出した。
バックボーンに漫才師があるからだろうか。⼤学環境の中で、⾃⼰と他⼰の分析を繰り返した成果は、私の強みは“⾔語化能⼒”だと理解した。インタビューを含むドキュメンタリーは、映像美よりも臨場感の演出に重きを置く傾向がある。その⼿段として⾔葉を主体とした意思疎通の⼿腕が試されるところだろう。「⾔葉ではなく、画で語れ」が、⼤学での教えの⼀つだったから、「映像というより演劇じゃないか」と、ある教授は笑っていた。
いずれにせよ、これからも映像をつくれることが、何より嬉しかった。

自主制作映像 作品集
私はアシスタントディレクターの仕事に没頭した。そして驚くことに、⼀ヶ⽉も経たぬ間にディレクターに昇格を果たす。取材時の段取りやコミュニケーション⼒を評価されたのだった。
私の担当は、経営者や企業の取り組みに密着するドキュメンタリー番組。出演者はタレントではなくビジネスパーソンだ。すなわち、撮影に不慣れな社会的⽴場のある⼈をエスコート(演出)する仕事。そういえば、取材時はジャケット着⽤が必須だったことを思い出す。だが、それも性に合っていたようで、⼊社間も無くして、多くの番組制作を担った。
アマチュア時代も“映像⼀⾊”だったが、環境が変われど、それは不変だった。平⽇は朝から深夜まで勤め、締め切り直前は徹夜することもある。会社の営業は暦通りだが、休⽇も持ち帰りの仕事があり、⼀週間に半⽇の休みがあれば御の字だった。ディレクターとして、300本以上の番組を制作したことは、紛れもない財産だ。だがその“300”の全てが良い作品だったわけではないのも事実だ。
「伸び悩んでいる」
私に向けられたこの⾔葉を聞くと、今でも気持ちが沈む。前例のないほどに“スピード出世”した私だったが、評価の実態は、そう⾼くはなかった。要⼈の扱いと段取りの巧みさから、⾸尾よく取材を進⾏できたため、多くの仕事を託されていたものの、無情にも決して作品の品質が良いとはされていなかった。
野球に例えるなら、⼤崩れせずに⼀定して6,7回までマウンドに⽴つが、年間で8勝8敗ぐらいの投⼿といったところか。チームにいれば有難いが、“エース”はおろか、勝ち星の貯⾦を作れるような存在ではない。
映像部の部⻑は、作品に対して顧客と制作者それぞれの視点で評価を下せる、傑出した⼈だった。かくいう私は、前者の評価はそれなりだが、同業者視点では不評。作品に“核”がなかったからだろう。顧客が求めるものをなるべく詰め込んで、それらしくまとめることで、責務を果たした気になっていたのかもしれない。
「何が⾔いたいのかわからないから、観終わった後に何も残らない」
これもまた、よく私に向けられた⾔葉だ。
部⻑「この作品のテーマって何?」
私「“社員に寄り添う会社”です」
部⻑「それ、どこにあった?」
私「社⻑のコメントにも、社員のコメントにも⼊ってます」
部⻑「そんなの誰が聞いてるの?視聴者はそんなに集中してないよ」
私「・・・。」
悔しいが、⾮常に的確な指摘だった。私の作品は打ち出したいメッセージが「⾔葉」でしかなく、それを訴求する「出来事」が⼊っていない、ということ。
例えば、⺟が⼦に対し「私はこの⼦を愛しています」とコメントしたインタビュー映像と、⾔葉を発せずとも⺟が⼦を強く抱きしめる映像なら、視聴者にとって印象深いのは後者だろう。付⾔すれば、その抱きしめるという⾏動の末に、⺟が「私はこの⼦を愛しています」とコメントすることで、メッセージの強度が格段に増す。当時の私は⾏動を演出せず、「私はこの⼦を愛しています」という⾔葉を映像に取り⼊れただけで満⾜して、それを⽰す出来事を映像にすることを怠っていた。
「有⼝無⾏」とは、⾔葉だけで⾏動が伴わないことを指すという四字熟語だが、まさしく、私の作品はそれだった。⾔葉だけでいいなら、⼀つの映像作品に様々なメッセージを詰め込むことができる。だが、それで満⾜するのは制作者や顧客など、取り上げる事象の事前知識が豊富な⼈たちしかいない。
⼀つのメッセージを“⾔葉”のみならず、⾏動を伴う“出来事”として映像化するのは、尺(作品上の時間)をとるため、伝えたいことを限定する必要があるのだ。
「⾔葉に頼り過ぎてはいけない」
“⾔葉”を強みに⼈⽣を進めた先に、⽪⾁めいた教訓が横たわっていた。⼿前味噌になるが、この洞察に⾄るまでは、それなりに努⼒もした。当時はまだNetflixやTVerなどの配信サービスはなかったため、地上波のドキュメンタリー番組を5つほど⾒繕い、nasneというストレージを介して、スマートフォンから録画映像を観る。会社と家を往復する電⾞内で、視聴と分析を
し、スクリーンショットと合わせて、スマフォのメモアプリに記録した。
このルーティンの最中で、幾度となく部⻑の⾔葉が脳裏に蘇ったことが懐かしい。部⻑の⾔葉だけで課題を克服しようとしていたが、異なる視点での訓練は、新たな気付きをもたらす。電⾞に揺られて湧き出た疑問を部⻑にぶつけ、そこでの⾦⾔を抱いてまた電⾞に揺られる。この繰り返しが、成⻑の源泉になったのだ。

映画制作チーム「Creem Pan」活動風景
私が⼊社4年⽬の30歳の頃、部⻑が独⽴起業をした。これが、私にとっても大きな転機となる。
当時の私は、⾃⾝の裁量で作品を納品し、その傍らで部下を指導する⽴場になっていたのだが、部⻑と⼊れ替わって、よりビジネスの“上流”から映像制作に臨むことになった。ありとあらゆる“数字”を注視するようになり、コスト(時間と実費)とパフォーマンス(売上)を睨む⽇々。それは難解で奥深く、重要なことだった。
しかし、何故だか没頭できない。それは“コストパフォーマンス”に、“顧客⽬線の効果測定”が含まれないことが受容しきれなかったのだ。
「私たちの仕事は本質的には、どのぐらいの価値があるのだろう?」
顧客からも同業者からも評価される作品をつくることに⼼⾎を注いできたことは明瞭だ。
「⾃分の⼒を試したいし、正しく使いたい」
とても⻘く、エゴイズムが滲む。だが、どうしても、その衝動を断ち切れなかった。
「実務では制作できない作品で、日常では獲得できない評価を⽬指す」ことを旗印に、社内で映画制作チームをつくりたいと申し出る。社員間の交流促進に、⼤変熱⼼だった会社だ。「業務時間外で活動し、制作費も当事者たちで捻出すること」を取り決めとしつつ、認可が下りた。
私と同じジレンマを抱える⼈もいた、ということだろう。ディレクター、デザイナー、プランナーなど、多様なメンバーが集い、映画制作チーム「Creem Pan(クリームパン)」が始動する。直ぐに制作する映画のテーマについて議論した。そのプレゼンテーションで、私は⼀つの想いを伝える。
「引退した競⾛⾺の多くが“⾏⽅不明”となり、若くしてその⽣涯を終えている」
私は18歳の頃、インターネットを通じて、マスメディアが報じない、この事実に触れて深く傷ついていた。
「社会⼈として⾃⽴した暁には、この問題に向き合う」
当時抱いたその決意を、ここでも熱っぽく語ったのだった。私以外のメンバーに、競⾺や乗⾺に明るい者は⼀⼈もいない。だが、競⾛を終えた⾺の“その後”については、相当に衝撃を受けたようで、⼀様に強い興味を⽰してくれた。
いつ以来だろうか。“得意”ではなく“好き”をつくるのは。
こうして、制作資⾦獲得を⽬指したクラウドファンディングを経て、映画「今⽇もどこかで⾺は⽣まれる」はクランクインする。1都1道5県を⾶び回り、全12シーンを撮影し、貯め込んでいた有給休暇を湯⽔のように使わせてもらった。
劇場公開⽇を同作の“完成”とするならば、構想から実に3年余りの歳⽉を要した。これほど⻑きにわたり、特定の作品に向き合ったこともない。94分という⻑尺作品を制作したこともない。クラウドファンディングの⽀援者の存在はあれど、顧客なき制作も学⽣ぶりだ。そもそも、国と密接な関係にある巨⼤産業が抱える“タブー”を題材にしたことで、ひとしおの重圧を味合わった。
⾔うまでもなく、私がこのプロジェクトから得たものは、極めて⼤きい。その個々に触れるのは、⾔葉が氾濫するほどに膨⼤な量になるため割愛する。だから今は、制作者としての学びにフォーカスして伝えたい。早速だが、その結論を語る上で⽤いたくなる、あることわざがある。
「好きこそものの上⼿なれ」
私は⽗の影響で、4歳の頃から競⾺新聞を⽚⼿に、競⾺場や場外⾺券場に通ってきた、⽣粋の“競⾺オタク”だ。例えば、私と同じ37歳で20歳から競⾺を楽しみ始めたという⼈は、2008年以降の競⾺に触れてきたことになる。その⼀⽅で私は、⽗の“英才教育”によって競⾺に触れたのは1992年頃から。それゆえに⼀回り以上も歳の離れた競⾺ファンと意気投合することだってある。
好きなことには時間を費やすから、多くの知識が蓄えられる。そしてそれは、その分野におけるリテラシー向上に繋がる。これは制作者としての“強み”に他ならない。なぜなら、相⼿が発する⾔葉ひとつを、“正しく”判断できるからだ。
私が経営者のドキュメンタリーを“主戦場”にしていた頃のこと。
「わかるけれど、わからない」
出演者の話を聞くたびに、その思いを抱いていたことを伝えたい。これは「相⼿と同じ視座で内容を理解することまでは難しい」という意味だ。だから私は「この番組制作を極めるには、経営者にならなければ」と、割と本気で思っていた。
その分野において、取材時の発信側(出演者)と受信側(制作者)のリテラシーに差があると、発信されたメッセージを正当に汲み取れないリスクが⽣じる。出演者から「業界としても画期的で⽋点がない取り組みです」と⾔われたら、それを鵜呑みにするしかなくなってしまうだろう。「業界全体から客観的に⾒た評価」から掛け離れた内容で作品が完成しても、視聴者はこれを評価しない。
そしてもう⼀つ。リテラシーが⾼い制作者に、出演者は⼼を開きやすい傾向もある。
「話がわかる⼈との話は盛り上がる」
それは、これに尽きるだろう。共通点のある⼈との会話が弾むのと同じ原理だ。
最後に念の為、もう⼀つ付け加えたい。その分野におけるリテラシー以外に、ディレクターとしての⼒量も、良い作品づくりには必要不可⽋だ。後者は、映像表現における知⾒の⾼さや、関係各位の指揮⼒などが、それに当たるだろう。その分野への“専⾨性”と、プレイヤーとしての⼒量である“表現⼒”。この⼆つの掛け算が、良い作品を⽣む⽅程式だと、私は確信している。

映画「今日もどこかで馬は生まれる」
映画「今⽇もどこかで⾺は⽣まれる」は、全国の独⽴系映画館で上映された後に、Amazon Prime VideoやU-NEXTなど多くのプラットフォームで配信された。⾨真国際映画祭2020では⼤阪府知事賞と優秀作品賞を受賞し、⼀部の海外でも放映されるなど、思い描いていた以上の広がりを⾒せる。
嬉しい誤算だったが、会社員との⼆⾜の草鞋が困難に状況に陥った。そしてそれが、私がフリーランスになった理由だ。約5年間、⼈⽣のほぼ全てを捧げ、それ以上のものを私に与えてくれた会社を去る。同社とは後進の育成など、⻑きにわたって付き合いが続いていくのだが、暫くは⼼寂しくて仕⽅なかった。
そんな⼼情を紛らわしたのも“仕事”だった。世間はパンデミックの渦中にも関わらず、駆け出しの個⼈事業者は忙しい。イベントやセミナーの記録映像、誰もいない不動産物件の映像、友⼈の結婚式で流れるコメント映像まで、当時は⾷わず嫌いをせず、あれこれ⼿を出した。前職の顧客を引き継がない中での好調は、ひとえに幸運だったと⾔える。
仕事の取捨はしなかったが、⼯夫はした。⼀般的には⼆⼈体制であろう現場を⼀⼈で請け負うことで、廉価に取引しつつも利益を得た。撮影は、フリマアプリで⼀眼レフカメラと周辺機器を購⼊して鍛錬に励み、⼩規模の撮影は⾃分でこなせるようになった。
そして実は、撮影機材の運搬や、インタビュー時はカメラのRECマーク点灯を確認してもらうなど、顧客が“助⼿”になることも。
「そんなことなんて、お安い御⽤!」
異⼝同⾳にそう⾔ってくれた方々に感謝だ。前職の経験を存分に活かして、コンサルティングのようなことも、しばしば請け負った。映像商材の開発やリニューアル、制作者の教育や評価制度の制定などがそれに当たる。無論、インタビュー含むドキュメンタリーの依頼もあった。そしてそれは、とかく難儀な仕事が多かったように思う。例を挙げれば、制作が開始されたが問題が生じて先任者から交代する事案、とにかく要求がシビアな事案、取材先の特殊性の⾼い事案など。
“⽈く付き”が多い理由は“お家芸だから”とするのは、⾃惚れが過ぎるだろうが、案件規模が⼤きいものも多く、緊迫感もあった。⼀⽅、⼀線級で活躍する⼈たちと肩を並べることも多く、駆け出しのフリーランスにとっては、その副産物が有り難かったことも事実だ。
過去のドキュメンタリーの中では、テレビ東京の「ダービー特番」や、netkeibaの「競⾺履歴書」などは、私の映画が契機となっての受注だが、競⾺関連の仕事は今でも増え続けている。
直近では、JRA70周年特別企画「ICHIRO MEETS KEIBA」にて、イチローさんと武豊さんの対談シリーズ映像を演出した。ジャンルの異なるトップアスリート2⼈が、そのこだわりについて語りあう対談企画だ。
イチローと武豊。⾔わずと知れた伝説のアスリートで、メディア出演にも“慣れている”⼆⼈だ。しかも聞けば、旧知の仲だという。
「ディレクターが細やかに演出せず、出演者に裁量を委ねた段取りが良い」
それが、関係者の総意だった。
平林「可能な限り、会話は横ではなく縦に移動してほしい」
これが私の、⼆⼈への唯⼀の“演出”だった。
A「⼼に残る、挑戦はいつですか?」
B「デビュー戦です」
そんなやりとりがあったとする。縦への移動とは、回答の要因や逸話を深掘りすることだ。
A「デビュー戦におけるどんなことが、印象深かったのですか?」
このようにして、トピックの解像度を⾼めていく。⼀⽅で横への移動とは、回答を横切りしてトピックをスライドすることだ。
A「なるほど。他にありますか?」
こちらは、話のバリエーションを⽣む。だが、インタビューや対談などのドキュメンタリー制作に多数従事した⾝からすれば、回答にバリエーションがあっても、あまり重宝しない。単なる“事実の羅列”にしかならず、視聴者の興味喚起に⾄らないからだろう。だから、その作品が伝えるべきテーマを定め、そこから⽣まれた良いトピックには、すっぽんのように⾷い付いて、縦へ縦へ深層まで潜っていくべきで、それが作品を強くすると確信している。
もっともらしく、講釈を垂れてみたものの、私は両名に⻑らく憧れの念を抱いていたため、気もそぞろに失態を犯さぬよう必死だったことを白状しよう。公事としてはもちろん、私事としても、特別な仕事だった。

書籍「サラブレッドはどこへ行くのか 「引退馬」から見る日本競馬」
私は“制作”と“創作”を⾏き来している。
前者は作品を“つくる”こと。後者は作品を“⽣み出す”こと。独⽴後の仕事として前者ばかりを綴ってきた。しかし、⽔⾯下で創作活動にも勤しんでいたことも伝えたい。
2024年12⽉に、新書「サラブレッドはどこへ⾏くのか -引退⾺問題から⾒る⽇本競⾺-」を上梓した。これは、遡ること約2年半前に、NHK出版から執筆の打診を受けたことに端を発する。
「映画公開後のムーヴメントを作る⼀環としても、映像と地続きで、書籍という異なる形での新たな展開を、ぜひともご⼀緒に模索できないでしょうか」
私の映画を観た、競⾺好きの編集者からのラブコール。映画制作後の私は、⽇本全国津々浦々まで、⾺と共に⽣きる⼈を訪ねて取材をすることがライフワークになっていた。そしてその“研究発表”の場として、⼈と⾺を⾝近にするサイト「Loveuma.」を制作し、運営をしてきたのだった。
それを“下地”にしながら、⼈⽣初の執筆活動へ向かう。同書は題名そのままに、引退した競⾛⾺の余⽣が確保されていない問題について、様々な⽴場にある多くの関係者への取材と、確証性のある数字を⽤いて、克明に編算したノンフィクションだ。⼿法が映像ではなく⽂章なのだから、苦⼼したのは⾔うまでも無い。
だが、こと取材に⾄っては、原理原則は同じだった。その作品のテーマを⽴て、それに忠実にインタビューをしていくという姿勢や、先に述べた“縦移動”の流儀は、相通じる。⼀⽅、明確に異なるのは、活字表現であれば、相⼿がその⾔葉を発しておらずとも、合意形成があれば、“⾔ったこと”にできるところだ。
A「引退⾺問題は、まずは知ってもらうことが必要ということでしょうか?」
B「はい、そうです」
こうした場合、活字表現であれば、Aの⾔葉をBの発⾔として作品にすることが出来る。しかし、映像表現においては、こうはいかない。それゆえに、活字表現のインタビューにおいては、回答が“はい”か“いいえ”に限定される、クローズドクエスチョンという⼿法が、積極的に活⽤できるのだろう。映像表現では、使い分けをしつつも、回答を制限せずに⾃由に話してもらう、オープンクエスチョンが主流だ。
テクニカルなうんちくはここまでにして、話を戻そう。
制作は、私ではない誰かから始まり、誰かの意志により終わる。創作は、始まりも終わりも⾃分だ。前者において本音を言えば、他者が決裁権を持つ中でつくることで⽣じる、困難やもどかしさやもある。だが、⼼理学者・フロイトが「⾃由には責任が伴う」としているが、創作という“⾃由”が発するそれも、相当に過酷であり、これも偽らざる本音と言っていい。
事実、同書執筆の際も、幾度も原稿を読み返しながら推敲していくのだが、脱稿間際ともなると、その量は267⾴にものぼった。“確認”だけで、約5時間。その後にやっと、考察し、想いを綴るのだ。この⼀連は徹底した⾃⼰制御の上に成り⽴っている。何故なら、この取り組みが“⾃由”に溢れているからだ。
顧客から請け負う仕事は、締め切りや品質基準が明確に定められるが、創作活動におけるそれは、曖昧であり、⾃分次第だ。
私は私を過度に信⽤しない。⽬先の誘惑に負けて責務を果たさなかったことが、いくらでもあることを、この場を借りて懺悔したい。だから、執筆の際も、“逃避”のリスクを感知すれば、即座に家を出て飲⾷店の⼀⾓を“書斎”にする。また“過ち”を繰り返しそうになったなら、重ねての移動を速断する。状況の⼒を借りて、⼿を替え品を替えて⾃⼰抑制に励み、なんとか責任を果たしたのだ。
つくることは苦しい。だがそれでも、私は創作をやめない。⽇々の制作は創作のためにあるような⼼情すら抱いている。制作で⼿にした知⾒や資産を持って、まだ⾒ぬ創作へ舵を取る。今までずっと、こうして、つくり、⽣きている。
「⾺を究めて、つくるを極める。」
私はこれに邁進している。
「⾺と、つくること、どちらが好きなんですか?」
よく問われるが、それにはまるで迷わない。私はこの世の何よりも、つくることが好きで、その為に命を燃やす。好きなことができるのは、この上ない幸せだ。だが、その幸せは社会的成功の継続が対になっている。
それゆえに“好き”を捨て“得意”を取り前進した。だが、道を切り拓いたのは“好き”だった。帰するところ、⼆つとも肝要で、これもまた対になるということだろう。
最近は、会社経営も楽しくなってきた。映画制作チームから始まった、Creem Pan。今では⼀丁前に企業法⼈を名乗っているが、“カンパニー”ではなく“チーム”だという不変の想いがある。メンバーの“好き”や“得意”を⾒つめ、つくるのは、この上なく楽しい。
「⾺を究めて、つくるを極める。」
私の⽣きる源泉だ。Creem Panの作品によって、引退⾺問題を前進させる。併せて、⽇本⼀のドキュメンタリーチームになりたい。
それが、私とメンバーたちの⽬的地だ。
2025年4⽉18⽇ 平林 健⼀
